先日、童門冬二さんの本を読んでいたら、歴史作家なので、歴史資料をたくさんよまれるのでしょう。そのなかで、男の名前はちゃんと記載してあるのに、女性の場合は、名前ではなく、@@の女とか、@@の娘と書いてあることが多い、そのせいか、自分の奥さんを、名前ではなく、妻とか、奥方とか書いてよこす人を信用できない。。と書いてありました。

それに、呼応して、こびるわけではありませんが、わたしも、奥さんのことを名前をなくして、「奥さん」というのはちょっと抵抗があったりするのです。

ただ、こういうご時世なので、実名をだすというのは、本人の了解も必要だし、いいよ。。とは言ってくれても、内容によっては書きづらいこともあります。

それに、第三者に向かって、@@がこうしました。。というのは、あまりにも恥ずかしくて、それはできません。

かといって、まったく感情を抜きにして、「彼女」あるいは「妻」というのも、あまりによそよそしくて寂しい気もします。

なので、親愛の情を込めて「うちの奥さん」といっております。

ただ、これでは、彼女のもって生まれた才能をなんとなく埋もれさせてしまうのではないかと思っていたところなんです。

結構、いや、おしゃれが好きで、また、しっかりした考えをもっていて、人間に限らず、動物、植物に対しても博愛の精神を持っています。

彼女は、「世の中に出て行く人だ」とわたしのことを評してくれていますが、彼女のほうこそ、たくさんのひとの精神的なよりどころになるべき人間ではなかろうか。。と思っています。

そんな思いがあるものだから、先日、郵便物にかかれた彼女の「日高@@」という名前を見ながら、

なふんが世に何かをだそうというときは、「日高」ではなく、旧姓の「中山」がいいかもね。。

という話になりました。

九州男児としては、奥さんが自分を差し置き、名をはせるのは、許せないことなのかもしれません。
まして、そのときの名前は、嫁ぎ先の姓ではなく、旧姓をつかう。。

昔かたぎの人間からすると、そんなことでは男がすたる。嫁ぎ先の家を馬鹿にしすぎている。。と怒られるかもしれませんね。

でも、そんなことですたるような男ではありたくないのです。そんなことで青筋をたてるような家ではありたくないのです。

そういうものも寛容として受け入れられる人間、家でありたい、とそう思っています。


ということで、これからは、「奥さん」とするか、「なふん」とするか、「なふぞう」と呼ぶか、、決めてはいなのですが、それらは同一人物である。。ということをお断りしておきます。