1月12日の日記で(http://d.hatena.ne.jp/MAMEZO/20050112)二分脊椎という病気を生まれつきもっていて、5歳のときに手術、最近あるがままの自分を受け入れるようになって、いまは幸せだという人の話を書きました。

その方はいま、信仰を広めているということでしたが、そのかたとまた、ゆっくり話すことが出来ました。

どこの宗教かは書きませんが、基本的に私の考えていることとすごく近かったので、正直びっくりしました。
ただ、私のはまだまだ考えが浅く、人さまに伝えるようなものではないのですが。。

短い時間ですので、たくさんのことを話したわけではないのですが、その宗教も、まずは死を認めること、死とはということから、信者の人たちに教えるそうです。

人間いつかは死にます、そのときに「いい人生だった」と思えるような一生を送りましょう、今日一日を一生懸命生きていきましょう。
というものだそうです。

日々生活しているといろんな悩みがでてきます。わたしは、最近は悩むことはほとんどなくなりました。
悩みというのは、いま、あるものを何とかして変えたい、あるいは、何かを無理に成し遂げたい、どこかに頑張らないといけないというものに端を発しているのではないかと思ってます。

もちろん、人間として、向上心はもちたいと思ってますし、それを失っては、精神上の死を意味するのではないかとさえ思っていますので、たえず向上したい。
けれども、無理やりに何かをしようとすることは、やめることにしました。

ただ、普通は、昇進したい、人に認められたい、何かを手に入れたいと、頑張り、なかなかそれに到達しないと、何が悪いのだろう、どうして他の人は認めてくれないんだろう、どうして世の中の仕組みはこんなに間違っているのだろうと、どうしても悩んでしまいます。

その人たちの悩みをなくそうとするためなのかは分かりませんが、その宗教では、とにかく人のために動きなさい、人が喜んでくれることを、一生懸命すれば、自分の悩みは吹き飛んでしまいます。と教えてくれるそうです。

こころから、人のために動くこと、人が喜んでくれることが自分の幸せと思える人にはすばらしい教義だと思いました。

まだまだ、考えの浅い私は、でも、人のために動くというのが中心になってしまって、自己犠牲を強いられている人もいるのではないですか?とお聞きしたら、みんなそんなことはなく、人のために動くことが、自分にとっても幸せだと、みんな思っています、といわれました。すばらしいですね。

私は幸い宗教という、系統立てたものに頼ることなく、自分で、自分の幸せの定義を探そうと、スタート地点に立ったばかりですが、普通の方には、拠るべきものがあるというのは、すごく意義のあることですね。とお話しました。

その方に、褒められたというか、そういわれる人は初めてですと、いわれたところがありました。

「わたしも、あなたと同じく物欲というのはほとんどなくなりました、本当の意味での幸せというのも、なんとなく見えている気がしますし、こんな気持ちをみんなが持ってくれたら、世の中が良くなるだろうなあ、と思ってます。
ただ、そういうことに気づくことが出来た私には、いわゆる成功、というものを手に入れる責務があるように思うのです。

本当の幸せをもとめて、実際一歩踏み出して、かつ、いろんな人にその思いを発信し始めた私には、これから、このことに気づく人に対して、ああ、こうやっていれば、経済的にも精神的にも時間的にも幸せになれるんだ、ということを示してあげないといけないのではないかと、自分に問いかけて、いま、毎日を生きています」

と伝えたことでした。
成功という形が、どういうものかははっきりとはしてません。

ただ、思うのは、国民みんなが満足のいく行き方、死に方を教授できればいいなあ、国民に限らず、世界中の方が、幸せに生きていければいいなあということのみです。

わたしに出来ることは微々たるものです。
それでも、願をかけることくらいはできます。

元気で、奥さんと心花とまめぞうさんと、宮崎の片田舎から世界の平和を祈ることが出来て、本当に幸せです。