あかんべい先生ありがとうございます。

GALANT's CAFEさんやKu-KaiさんにもTBしていただいた幸せについての記事です。

先日あかんべい先生にも送って頂きました。ありがとうございます。いろいろ考えさせて頂いたので、こちらに感想を書かせて頂きます。

まずは、あかんべい先生の日記より。。(TB先を見られた方はとばして下さいね)

「自分の幸せ」ですか?
僕は基本的に『幸せ=達成/欲望』という考え方をしています。ですから、欲望をできるだけそぎ落とせば、日常の生活の些細なこと何にでも十分に幸せを感じることができると。
だからというわけでもありませんが、僕は日々幸せを感じるように心がけています。朝起きれば、今日も新しい1日が迎えられることに感謝し、仕事をふーふー言いながらでもやることができれば、やはり感謝です。夜は嫁に夕飯を作ってもらったり、あるいはどこかで食べに行ったとしても、腹一杯になって酔っ払っては幸せを感じています。日常の中でふっと気に入った風景を垣間見ることができれば幸せを感じることができると思います。
ま、言うのは簡単ですが、うまく行かない場合ももちろん多々あります。日々暮らしている中には不満や欲望というものは沸き起こってきます。子どもは立派に育って欲しい、お袋にはもう少し楽をして欲しいと言うような多少漠然としたものから、新しいパソコンが欲しいなとか、休暇をとって旅行にでも行きたいな、おいしい物が食べたいなとかいった具体的なものもあります。そういったものは、とりあえずの目標になるし、日々の活力になるものだと思うので自分の中ではある程度は容認しています。
しかし、あまりに欲望が大きくなると、幸福の指数は小さくなってしまうので、できるだけそぎ落とす、すなわちできるだけ自分の気持ちと折り合いをつけて忘れることです。幸い僕は忘れっぽい性格なので、忘れているふりをしていると本当に忘れてしまします。幸せなヤツです。
僕の中では、幸せというのは基本的には「目標」ではなく「日々感じるもの」ととらえています。幸せは、「なるもの・つかむもの」ではなく「感じる」ものだと。
こういう考え方は、すいしょう先生やGALANT's Cafeさんのお話されている幸せとはちょっと違うかもしれませんね。人に何かポジティヴなもの(感動だとか、幸せになる考え方であるとか)を与えることができれば、自分も幸せを感じることができる。確かにそう思います。僕もそういう時にはとてもうれしいです。ただ、僕の場合、それは数ある幸せを感じる中の一つでしかないように思います。
誤解のないように言っておく必要がありますが、人に何かポジティヴなものを与えることのできた喜びと言うものが、他のことより劣っているとは全く思いません。むしろ、崇高な、求めるべき理想ではないかとさえ思います。逆に、自分が感じる日々の幸せというのは、次元としては1ランク低いものではないかとも、考えるに至りました。日々の幸せに安穏するのではなく、より高い幸せを目指して努力すべきではないかと。
ただ、日々の暮らしで些細なことにでも幸せを感じることができるというのは、そのこと自体、幸せなことだと思います。少なくとも精神衛生上は楽ですね。質よりも量みたいなものなのかなあ。何かわかったような分からないような話ですが、ちょうど大乗仏教小乗仏教の違いみたいなものかもしれません。
こうしてここまで考えていくと、僕の感じる幸せというのは、かなり利己的なものなのかもしれないなと思い至りました。それは、『幸福=達成/欲望』という基本公式が間違っているのかもしれません。基本的に分子が大きいか、分母が小さいかという違いはあっても、求める次元は同じになってしまいますね。「物理的な欲求を満たすことが真の幸福ではない」というのはよくわかります。でも、欲望をそぎ落として求められる幸福も実は同じ次元のものだったのではないのか。
確かに、僕は嫁に時々「あなたは自分のことしか考えていない。」と言われる場合があり利己的な所が多いかもしれません。特に何か一つのことに熱中してしますと家族を放っている時があり、あとで反省するはめになります。家族のことを大切に思っていないわけではありませんが、ふと、我を忘れていることがあります。これは性分なんでしょう。だからといって放置しておいてはいけません。努力する必要がありそうです。そういう意味では、幸せは努力して得るものなのかもしれません。
ここらで、新しい幸せの公式を模索する必要があるのかもしれません

素晴らしい考察だと思います。すごいですよね。
TB本当にありがとうございます。