今日の講演は「都城市」という所でありました。

都城って、なんか意味深な名前でしょ。もともと都があったのかな。。なんて思っちゃいます。

九州に邪馬台国があった。。という説もあり、もしかしたら、そのときの「都」がこの都城市にあったんではないか。。なんて、勝手に想像を膨らませていた時期もありました。

結論からいうと、全く違いました。(当然か。。)

講演をはじめる前に、スタッフのかたに、都城の名前の由来を尋ねてみたんですが、よくは御存じなかったようで、そのうち、自分で調べてみよう。。と思っていました。

講演が終わり、次の予定まですこし時間があったので、近くの歴史資料館に足を運ぶ事にしました。

なんでも1375年に築城されたお城の跡、いわゆる城址に、お城の形をした資料館を建築したというものです。

残念ながら、資料館は閉館直後で中に入る事はできなかったのですが、その周りを散策する事が出来ました。

島津の十字のご紋があしらってある大手門をくぐり(立派な大手門ではあるのですが、どこからどこまでが当時のもので、どこから先が後世のものかわかりませんでした)、ずっと奥に入っていくと、「都城鶴丸城)跡」の看板が立っています。

鶴丸といえば、鹿児島で有名な進学校です。なんらかのつながりがあるのでしょうか。。今後の課題です。

虎口といわれる曲がりくねった入り口から入ると立派なお城が見えます。

本丸のあとに立てられた歴史館です。説明によると、1375年に築城、1615年の一国一城政策で廃城になるまで、240年間この地域の拠点になったと記されています。

こうやって一言で書くと、味も素っ気も無いのですが、その240年間の周辺の豪族、藩との攻防、さらに、廃城と決められて、そこにいた城主、また、家臣のみなさんの気持ちはどんなものだったんだろう。。と思うと、胸に込み上げるものを感じ得ませんでした。

資料館の中には入れなかったものの、後ろのほうに回ると、記念碑がいくつか建っていました。

昭和11年都城市と五十市村が合併した事を記念するもの、また、横に軍曹や何とか等兵なにがしと刻んである招魂碑、はたまた、瑞泉院の菩提碑など、それぞれの時代を感じさせるものが並んでいました。

おかげさまで今の私があります。。

そう、手を合わせてきました。


また、資料館の右手には仁王像が立っています。

雨が降っていてメモ帳を携えることができなかったので正確ではないかもしれませんが、1714年に彫られたものでした。裏を眺めてみましたが佛師の名前はありませんでした。

佛師の話は、また別の機会に書くとして、同じ時代の仁王像でも、飫肥藩のひとつの郷であった清武に残っている仁王像と、隣接する島津藩での仁王像とではやはり違うのですね。

今と違って、同じ県内ではありながら、藩が違うという事の距離を感じる場面でした。

この資料館は小高い山の上にあります。そこから都城市を一望できます。ちょうど、物見櫓があったであろうところに立ち、すこしその頃の殿様の気分に浸ってみたりしました。

この、本丸のあとのとなりに、当時ニの丸にしていたという場所があります。今は狭野神社となっていて、その裏は遊具があり、公園としての役割も果たしているようです。


今日は急病センターで当直中です。患者さんで呼ばれました。すこし、この場を離れます。