昨日、というか、本日早朝のよっぱらってけんかをした、という若者のことで、貴重な経験をたくさんさせてもらっています。

最近こういうことがなかったので、久しぶりで非常に新鮮です。

ものごとと向き合うにあたり、どのような心境でことにあたるのかについて修行しているようなものです。

自分の言葉や行動に、「我が身可愛さ」が出てしまうと、相手を助けたい。。という誠実さが失われるし、相手も、それを感じて私のことを信じてくれないのではないかと思うのです。

今回は、自分可愛さに基づいて行動した結果、なにかしら失敗して学んだと言うよりも、我が身可愛さをすて、「忘己利他」の精神でことにあたったら、思いのほかうまくいった。。まさに、案ずるより産むが安し。。ということを学んだ経験でした。

具体的な内容をかけるといいのでしょうが、守秘義務もありますしね、、感じたことだけで勘弁して下さい。

「おばあちゃん」というタイトル。。

わたしの祖母のことではありません。ちなみに、先週の日曜日、動物園の帰りに祖母のところに行ってきました。心花をみて、笑ってくれます。それどころか、「ぶぅ〜」と笑わそうとしてくれます。

だっこしようともしてくれますし、実際、心花の半分、5kgしか体重をかけることはできませんが、ひざの上に座らせてもくれました。

ぷよぷよとして、奥さんをして「横顔がアンパンマンにそっくり」といわしむ、心花のほっぺが気持ちがいいのでしょう、、なんどもなんども、心花が泣こうとしても触ろうと手を延ばしてくれます。

そんなおばあちゃんではなく、今日、外来においでになったおばあちゃんです。

齢82歳。

大正13年生まれだそうです。ことあるごとに「なんちゅっても、もう82じゃかい。。大正13年生まれじゃかい。。」との節回しがでてきます。もっとも、脈絡なしではなく、話がすこし難しくなったり、記憶があいまいになっていることだと、そのフレーズがでてきます。

妙に納得させるフレーズです。私がどう苦心しても、いま体験できることではないですものね、人生82年。。貴重な経験です。

最近は、御高齢のかたと外来なり、入院なり、はたまた、病院とは関係ないところで御縁を頂いたときなど、その方の出身のことや、いままで経験されてきたことを伺うことが多いのです。

いままでは、その方の持病、つまり、高血圧でかかっておられるのなら、「今日は血圧はいいですね」とか「最近の食事のしお加減はどうですか」とか、ともすると、医者としてのわたしの興味のあることしか尋ねていなかったような気がするのですが、患者さんにとって、血圧を正常に維持させるのは最低限必要なこととして、もっと、その先に、「今日はこの人と話せてよかったな。。病院にきてよかったな」と思ってもらえるようなことをすべき、いや、できなくても、目指すべきではないかと思っているのです。

そのために、何をすべきなのか。。

それは、究極的には、自分の健康への執着をすてて、いかに、自分の中に社会的役割を見い出すか、、そのお手伝いをすることではないか。。と思っているのです。

ただ、そこに行きつくには、長い道のりがあります。

まず、自分の健康への執着を捨てることができるのか。。それは、病気になってからでは遅いのかもしれません。病気にならないように、予防に気をつけ、また、しかるべき人間ドッグをうけて、それを自分で確認し、「よし、自分は大丈夫。。」と思えること。。

それでも、病気になるかもしれませんし、すでに病気になっている人はどうするのか。。ということになるのですが、それは誰のせいでもなく、自分の食生活を含めた行いからきたのだと、覚悟をきめ、ちゃんと病気に向き合う。。そのうえで、しかるべき治療をうけて、再発なり、あるいは、新たに病気にならないように気をつける。

すべてをひっくるめて、自分に起きていることは、起こるべくしておこったんだ、では、それを次にどう活かして行くのかに思いを馳せる。。

それがもしかすると、自分の健康への執着を捨てるための、第一歩なのかもしれないな。。といまは、思うわけです。

いかに社会的な役割を見い出していくか、、それが、どう、自分の幸せと結びつくのか、についての話はまた長くなりそうなので、おいおい書くこととします。

書き始めたときは、その、82歳のおばあちゃんに教えてもらった、昭和9年(だと思うのですが。。いかんせん、なんせ82歳じゃかいよ。。という言葉とともに笑い飛ばされてしまったもので。。)の昭和天皇の宮崎への行幸の話を書こうと思っていたのでした。

思わぬ方向に進んでしまいました。

熱く語って疲れました。。すこしPCを閉じます。