61年目。。

本日、8月15日。

午前中、患者さんの回診につきながら、ベッドサイドのテレビが小泉首相靖国神社参拝を教えてくれた。

就任後、はじめて15日に参拝。

結論から言うと、賛成である。

非常にナイーブな問題ではアル。あるけれど、その「ナイーブ」という言葉に甘んじて、何が問題なのかあぶり出さないまま、なんとなくナイーブだ、アンタッチャブルだ。。と、そう逃げているだけのような気がする。

なので、まずは、反対か、賛成か、その立場に固執せずに、とりあえず、反対か賛成かの立場にたってみるのもいいかもしれない。

そして、それぞれの意見に耳を傾けてみる。

自分の場合。。

賛成である。

ただ、A級戦犯を合祀している神社に、いくら私的な立場だといいながらも、国民の顔としての総理大臣が参拝するのはけしからん。。という意見もたしかにわかる。

ただ、そのけしからん。。というのが、なんなのか。。

中国、韓国の感情を損なうからけしからんのか。。経済で悪影響を与えるからけしからんのか。。

そんな理由なら 『No』と言おう。

東京裁判を認めるとしても、そのうえでの賠償はしてきている。

その点では、たしかに政府間でもめてはいないように思う。

賠償の問題とは別に、戦争責任のあるとされる人間を、死んだ後までも恨み続けるのか。。という問題がある。

「死んだもんの悪口をいうもんじゃない。。」

自分の田舎では、そう言われてきた。よその土地を知らないが、そんな土壌が日本にはあるのではないかと思うし、もう一度、胸に手をあてて考えてもいいのではないだろうか。。

その点で、中国では違う気質を持っているのは、事実である。

そこで考える。

日本人が中国人に向かって、死んだらみんな仏様になるんだ。。だから、そんなに憎むな。。そういっても仕方がないし、おそらく放っといてくれといわれるだろう。

これに関しては日本人の考え方のほうが分が悪い。憎んでいるものを許せ。。といっているのだから、許そうとしているものを、憎めと言われるほうが、余計にむずかしい。

もっとも、そういう問題ではなくて、国家が国内の不満を分散させるために情報を操作していると考えるのであれば、そこまで考えるまでもないと思うが。。これに関しては、中国がアメリカみたいに公文書を公開しない限り、あるいは、体制が崩壊して内部の事情がでてこない限り分からないだろうとは思うけど。。

それでも、背に腹は変えられない。。という経済人や、なぜか中国、韓国の顔色を気にせざるをえない。。という人もいるのであろう。。

であれば、分祀について、中国、韓国の前でどうどうと議論をすすめるべきではないのだろうか。。

その上で、日本としての意思を固めるのが重要だと思うのである。

靖国神社のいう、「分祀をすることは東京裁判を認めることになる。。」これでは、ちと弱い。

東京裁判の正当性について、なにが問題で、そういう論点になるのか、きっと私の勉強不足なのだろうと思うが、その根拠がわからない。もし、靖国神社が本気でそれを主張したいのであれば、国民に訴えるべきではなかろうか。。

アメリカ主導で裁判が行われたことや、やってはいけない戦争に突入してしまったこと、しかし、その当時としてはやむにやまれぬ事情で戦争をはじめてしまったのではないか。。ということ、戦争に至ってしまったその経緯をどこまで追うべきなのか。。

戦後61年経って、こうだったんじゃないかな。。と想像していること、つまり、鎖国政策をとっていた日本が、外圧で開国せざるをえず、植民地になるまいと富国強兵のみちを歩み、資源のない日本が、当時の西欧各国がしていたように外に目を向け、それを自分の国だと主張し、よその国と戦い、たくさんの犠牲者を産み、終わった。その責任を戦勝国の主導で裁判が行われ、戦勝国の主導でイメージが植え付けられ、復興にあたって、朝鮮半島における東西の対立の恩恵をうけながら、かつ、国民の勤勉さで経済的な繁栄を勝ち得た。。そういうことをもう一度検証すべきなのではなかろうか。

そして、本当の意味での終戦を目指して、敗戦国として植え付けられたイメージを、もう一度、自分達、日本人としての価値観で見つめ直してもいいのではなかろうか。。

そんな気がする。

敗戦国として植え付けられたイメージ。。

本当に植え付けられたのか。。はっきりとは言えない。

けれど、いわゆるA級戦犯の人がなにを思って当時を過ごしたのか。。なぜ真珠湾攻撃をしなければならなかったのか。。

少なくとも、知らない。知っているのは、戦時中のまちがった教育、お国のために死んでいった可哀想な英霊たち、天皇人間宣言GHQによる戦後復興、などなどである。

なぜか東条英機がなにを思ったのか知らない。。


こう書くと、戦争を起こした責任を放棄して、ナショナリズムを煽るのか。。と言われそうである。

ナショナリズム、、と書くと分かりにくい。

日本人としての誇りは持つべきだと思っている。かなり前にも書いたが、地球人としての日本人である。日本人だけが正しい。。という偏った誇りは持つべきではない。

いろんな国民がある。
それぞれに個性、性格をもっている。
グローバルスタンダードといって、画一化される必要は全くないと思う。
それぞれの国民性、個性を尊重しながら、共生していくべきである。

その際に、日本人としての誇り、信念を持たなければ、どうしても自分を見失ってしまう。

自らのカコを見つめ、自らの信念にたち、そして前を向いて、胸をはって歩いていくべきだと思う。